数学とは思想?

うつで寝込んでいるとき、(信ぴょう性は微妙だが)いろんな豆知識を得ることが癒しになっていた。たぶん、日々何も学べないことにコンプレックスを抱いていたので、ただ何か自分が新しいことを得ているという感覚はすごくそれを紛らわせてくれたからだと思う(頭を使わないことしかできないので、頭を使わなくてもできるのはそのような中身の薄い知識だった)。

 

そこで出会ったものに、習慣化するのに要する時間、みたいのがあった。

・勉強など行動系・・・1ヶ月

・筋トレなど体を使うもの・・・3ヶ月

・論理的な思考、ポジティブシンキングなど思想系・・・6ヶ月

ということだった。

そのときは「ああ、自分もいつかの時点でネガティブシンキングを始めて、最初は過小評価による安心感みたいなもののほうが大きくて負の側面については何も考えなかったけれど、きっと習慣化してしまって、その習慣に乗っ取られてしまったのだな。」

と思った。それは自分のうつ病発症の原因の一仮説として、自分に納得出来る何かを与えてくれた。

 

それで、今になって、それ以外のことに思い当たった。

数学もそうなのではないか。

数学は最初は簡素で明快で、私はそれだけに魅了されて数学が好きになった。

そんな私にとって、大学数学(うつ前、大学1、2年の数学程度)は「え、なんか思ったよりややこしい」→「でも少し(結構)努力すれば、以前と同様の感覚を得られる」という感じがしていた。で、うつになってから。3年の春学期は(意図的に落としたものを除けば)単位はすべてとったし、成績も悪くなかったはず(ただ6月にうつ病でダウンしてから休養していたので、それ以前にしっかり勉強していたものしか身になっていないという認識はある)であった。

 

いま、3年の秋学期である。数学に割く熱意と時間が圧倒的に減っていることと、理解力もきっと多少落ちているのだと思うが、数学も複雑化している。

複雑化しているが、先生は今までと同じように教えてくる。

追いつくのが大変。追いつけない。

でも先生は当然のことが起こっているように話している。

 

どうしてこんな複雑にしているの?なっちゃうの?

こんなごちゃごちゃした長い計算のあとにたいしたインパクトのない結果を見せられて「こんなことが言える」って。言えるけど、なんかそれのインパクトってあんまりわからないよ

 

たぶん、それ以外の結果がいかに言えないか、ってことを長年(そんなに長くなくても)研究していればどんどんよくわかってきて、言うことのできるそれの重みが出てくるとか、そういうのも勿論あるんだと思う。

 

あと、教える人自体が理解していなくて伝わらないという可能性がないとは限らないが、私が見ている限り、先生は本当に納得してそれを伝えているように見える。

 

何が起きているのか。それはつまりこういうことなのかなと考えた。

数学はある種の思想だということ。

(相当省きましたが。汗)

習慣化した人、させた人にとっては当然に思える、それから色もついて見える。

全部が全部"なんか難しいこと"なのはその思想の外にいる人にとってであって、

その思想の中にいる人にとっては、何が価値のある結果で、何が普遍的で、何が断片的(応用があまり利かない特殊例みたいな)で、というのがはっきりしているのだろう。(もちろん、その特殊例が何か大きな未来の分野の氷山の一角だった、なんてことは繰り返されてきたのだろうから、なにもその思想がすべてだとは思わないが)

 

 

 

弱解の構成などの勉強をしていて、

 

なんでこんな難しいことをしなくちゃいけないの?

こんなことして何かになるかな?自分で使えこなせそうにもないし

あんまり面白く見えない

(そりゃ面白みってのは習得せずにわかるものではないと思うのですが)

でもなんか重要らしいし冷静に考えれば学部3年で一律にやらされてるんだよな

→あ、ただ十分に時間を投資してないという心当たりがある。

 

となり、思想がもっともらしく思えるのに半年かかるという話を思い出したので、息抜きと記録に、書いてみた。20分もかかっちゃった。

 

まぁこういう記録ってあんまり意味ないかもしれないけれど、

私の頭は(経験的に思うことなのだが)小さい脳みそを持った3人か4人くらいが意見を出し合って生きているような感じがしていて、

すると、過去に考えたことでも、それを考えた小人さんが思い返させないと、ほかの人の頭で生きているときはすっぽり抜けてしまっていて、それがゆえにすごいタイムロスが起こったりすることは稀ではないので、もしかしたら、自分の思ったことを記録するのは無駄ではないのかもしれないなと、思い直しているところです(かつて尊敬していた先輩に「それは無駄だ」と一撃をくらったことがあったので)。

 

またたまに息抜きに更新してみようと思います。

わからない1(数学書を読んでいてつまったとき、その生々しい"わからない"を記事にすることで、冷静に打開策をみつけ記録する)

久しぶりに数学書を読んでいるけれど、著者がさりげなく「〜なので」ととばしているところで『ほんとにそうなのか?』となってしまう。

 

さあどうする?

 

選択肢は2つ;

⒈とりあえずそこは認める

でもムリに飲み込もうとしなくていいと思う。間違ってるかもしれないし。

 

⒉もしそこに書いてあることが誤りであるとすると…

として矛盾が起きれば正しいことがわかるし、矛盾が起きたとしたらほかの人に聞きに行く。

 

 

まぁとりあえずこんな感じで進めてみよう。

いつから

いつからこんなに消極的になったんだろう。

難しいことを使うのがいやになった。
簡単ですぐわかることしか使いたくなくなった。
前は簡単だったことが簡単じゃなくなってく。
使えるものがどんどん減ってく。

負のスパイラル

前はこんなじゃなかったはず、むしろ逆だったはず。
もっと明るくて面白い人間だったはず。

そんな記憶だけが命綱になってしまっている今が情けない。

戻りたいと思った

今日はそんなわけで、日吉に1時間半滞在して帰ってきてしまった(早い時間なら電車が座れる)。
日吉駅で電光掲示板をみていたらふと、以前の自分を思い出した。
数学をしているうちに一日が過ぎていっていたこと、このままでいいんだっていう安心感、
そんなふうにまたなりたいなって、ふと思った。

やっぱりそういうほうがしっくりくるのかも。やり方が少し悪かっただけで。
全くやめてしまったことで自分に負担をかけていたかもしれない。


あと、痩せていることも結構いろんなプラスがあるなって、ちょっとふとって気付いた。

少し負荷をかけてみる

何かいやなことや、少しでも無理をすると、いまだに乖離してしまいます。
でも少し脳みその機能が鈍ってるから乖離しやすくなってる気もする。
だから、少し勉強して乖離してもいいから、ひどくならない方法、負担になりすぎない勉強の仕方、を探ってみることにした。

具体的には、「書きながら」勉強すること、がまず一つある。

書いてないときの勉強って、わかってないのにすすめていくし、わからないことがそのままつまれていく感じ。わたしはけっこうこれをやってきてた。それは良くなかったと思った。

頭が使われたくなさそうにしていることについて

私は"努力"(生物学的な生存以外の目的で日々行うなにかのこと)は自然に為されるものであるべきだと思っている。

苦しかったら続かないから、それを「当然」のものだと思ってしまうほうがラクだ、という見方である。

それで数学をやってきた。よかったと思う。6月に突然原因不明のうつ病におかされるまでは。

 

それ以降、とりあえず、原因はよくわからないけど、数学を根詰めて(わかりっこないことをひたすら常時考えるような)やるやり方は、何も得られないだけでなく脳への負担もとてつもないということには気づくようになる。そしてこれはたぶん正しい。

でも数学を考えること自体はたぶんそんな悪いことじゃないんだろうな。と分離できたのがつい最近。

 

同時にいまの自分に困っていることは、考えない頭に慣れきってしまっていること。

(「英語は考えないからできる」といって楽しくやっていた時期もあったけど、いまは英語すら嫌になってる。頭を使いたくないのかな。困ったな。

たぶん最初の頃は英語は久しぶりでTOEICみたいな迫るものもなかったから楽しくできてたんだろう)

 

これをどうしたらいいんだろうか。